今日もパリの街角で

数枚の写真とともに パリの日々刻々をご一緒に

今日の「ちょっと寄り道」ロワールのほとり ②

 

昨日に引き続いて

トゥールの街を散策してみましょう。

 

フランス第一の大河

ライン川に次いでヨーロッパ第二の大河『ロワール』は

河岸のルートを走ると

景色がとっても艶っぽく

この辺り「トゥーレーヌ地方」が

『フランスの庭園』

と呼ばれてきたニュアンスが

よく理解できます。

 

 

流れが複雑で中州が多く

トゥールの街の横にも幾つもの中州があり

川船が靄ってありました。

 

 

百年戦争が終了し

イングランド王家は大陸側の広大な領土を全て失い

フランスは王権も国土も一本化して

大国として安定期を迎えましたが

それ以前は

上流のブロワ伯はイングランド王家の親戚で

下流のアンジュー伯はプランタジュネット王朝の本家で

その両者にはさまれたトゥールは最重要拠点であり

ずっと王家の直轄領でお城もありましたが

今では13世紀頃の塔が残るのみ。

 

 

昨日ご案内した市立美術館の展示されている

17世紀のトゥールの街を

ロワールの対岸から描いた絵ですが

左側にそびえるのが

「聖ガシアン大聖堂」です。

 

ちなみに一番左端にお城も描かれています。

 

 

パリ近郊で生まれる斬新な教会の建築技術で形成された

ゴシックという文化様式の雛形

パリのノートルダム大聖堂の建設開始に遅れること

わずか7年で建設開始。

 

しかし

完成したのははるかに遅く

16世紀になっていました。

 

正面の鐘楼の頂上部だけ

ルネッサンスの様式になってしまったのです。

 

王領だったことでゴシック新技術の伝播が

他の都市より早かったことと

その後宮廷がロワールの流域を離れて

この辺りの地政学的地位の地盤沈下が

完成を遅くした

ということがよくわかります。

 

上の絵図の右にある

尖塔がたくさんある建造物は

「サン・マルタン大修道院」でした。

 

 

大革命で破壊され

その後再建されたのはバジリカ聖堂のみで

修道院時代の聖堂の数分の一の規模しかありませんが

地下のクリプタに

「聖マルタン」の墳墓が置かれています。

 

古代ローマの将軍であったマルティネスは

非常に情の厚い人道的な貴族で

まだコンスタンティヌス帝が公認する前に

キリスト教に改宗し

アルプスを越えてここトゥールに拠点を構えて

初めて大陸側に布教して

人々に非常に敬愛されており

数10km下流のカンドという村で布教中に没しました。

 

小さな村にしかるべき教会を建てて安置されていた

マルティネスの棺を

トゥールの住民が奪い返して

この街に葬り直したとか。

 

彼は聖人に列せられて「サン・マルタン」と

なりました。

 

 

中世において広大な大修道院になり

最大の巡礼地の一つとなっていましたが

その頃の修道院聖堂の北の翼廊の出口の塔だけ

残っています。

 

続きは次回。